内部観測

本エントリは、『内部観測とは何か』と
『連続シンポジウム「メディア・テクノロジーと生成する〈知〉」「インターフェイスの可能性:創造の接面を探る」【後半】』のメモです。

『内部観測とは何か』を読んだメモ

下記のような観測は、この経験世界の内で絶えることがない。果てがない観測を内臓する。

  • 経験は間断のない観測から成り立つ。
  • 観測は経験世界の内部から生じる。
  • 経験世界内に現れる個物は、他の個物と関係を持つ。→相手から受ける影響を特定できる限りにおいて、その相手を同定する。

このような観測を内部観測という。

内部観測について考えるための資料

連続シンポジウム「メディア・テクノロジーと生成する〈知〉」
インターフェイスの可能性:創造の接面を探る」【後半】
http://hive.ntticc.or.jp/contents/symposia/20070609_2


上記の郡司ペギオ幸夫先生 (http://www.research.kobe-u.ac.jp/fsci-nonlinear/gunji/index.html) の動画のメモ

デカルトによるコギトという問題

問.どのように「考える私」と「存在する私」とが
うまく接続してある種の「主体」を構成しているのか。

デカルトの主張: 「考える私」と「存在する私」がうまく循環して一個何者かが成立 (「我思う故に我あり」のこと。)

カントの主張: 「考える私」と「存在する私」との間にゆるいインターフェースが存在して「考える私」と「存在する」私との循環を補助

ニーチェの主張: 本当の「現実」は「考える私」と「存在する私」の外側に存在し、「考える私」と「存在する私」との間にゆるいインターフェースは不在

インターフェースとは

亀裂である。亀裂は亀裂のままである。
芸術において「構想されるもの」と「実現されるもの」の間の亀裂が
外部を憑依することで「作品」が立ち現れるという構想に近い。

亀裂とは

何も無いけれど、外側にある何かを担ってしまう何物か。

問. 頭の中のヴァーチャルな「痛み」と、実際のダメージである「傷み」というのは繋がっているのか。

オートポイエーシスについて

郡司先生の主張: カント的なコギトの科学としての着地点=オートポイエーシス

オートポイエーシスはカントの主張に対応する「ちゃんとした全体」である。
細胞をモデルとしてオートポイエーシスを考える。
外側から栄養がやってきて、栄養が内部の化学反応のネットーワークに組み込まれ、
外側の壁が部品を作り出すことで作られる。外界と境界づけるもの。
部分と全体があってうまく循環している。「亀裂」を持ち込まず統一的な運動を取り扱っている。

ルイジルイジの主張:「時間」と「進化」とは、オートポイエーシスとは無関係

郡司先生の主張: 上記のニーチェの主張に対応する「ぐずぐずの全体」が存在
「認識」や「観測」はオートポイエーシスに付け加えることで考えればよいが、
「亀裂」を持ち込まないと「認識」や「観測」を議論できないだろう。

参考文献

  1. 松野孝一郎, 内部観測とは何か, 青土社, 2000